日本編

世界には、日本の常識が通用しない風呂がある。

日本編

◆石風呂

 いつ頃が起源なのか定かではありませんが、西日本の各地には石風呂(岩風呂とも言います)の跡がたくさん残されています。 中でも有名なのは愛媛県今治市に残る石風呂跡(写真下)です。

 主に自然の洞窟を利用したようですが岩山を人工的にくりぬいて造ったものもあります。
 治療とか予防のために利用されていて、海水や海藻類を上手に使っていました。ちなみに、洞窟を利用した風呂は、世界の歴史の中でもこの「石風呂」だけのようです。他の国でも自然発生的に同じような風呂が出来てもよさそうですが、なぜか我が国オリジナルなのです。

 シダや松の枯れ葉を焚いて洞内を熱したあと、灰を掻き出し、ムシロを敷きつめます。その上に海水を撒いて、洞内に蒸気を充満させます。 3畳から10畳程度の広さで、利用は夏期に限定されていたようです。男はフンドシ、女はコシマキ着用だったそうですが、明治時代まではたいてい男女混浴でした。かなり広い地域に亘って分布が見られるのですが、海水を利用するということで、いずれも海沿いなのが特徴です。

 熱気浴には、蒸風呂、トルコ風呂、砂風呂といった高温の蒸気により発汗させるもの(湿気浴)と、サウナのように乾燥させた空気によって発汗させるもの(乾気浴)の2種類があります。
 朝鮮半島の汗蒸幕などは乾気浴ですが、この石風呂や、後ほど出てくる八瀬の釜風呂などは乾気式をベースにしながらも、海水・生木・海藻より発生する薬分を含む水蒸気を利用するもので、機能としては湿気浴と言えます。

◆釜風呂

 時代的には、石風呂の次に出てきたのが釜(窯)風呂です。なかでも有名なのが京都・八瀬の釜風呂です。【下図

 言い伝えによれば、壬申の乱で傷ついた大海人皇子(天武天皇)が、この風呂で傷を癒したとあります。
 釜風呂はお隣り朝鮮半島の汗蒸幕と似ています。何らか影響を受けているようにも感じますが、確たる裏付けはありません。

 釜風呂の起源は、薪売りの大原女が、生木を乾かすために釜をつくって木の葉でいぶしていたのが始まり、と言う尤もらしい説がありますが、真偽は不明です。そう言えば、汗蒸幕の起源は、女たちが家事の跡、熱気の残った釜に入ったのが始まりと聞きます。これも共通点があります。

 余談ですが、京都にはこの八瀬の釜風呂を形取った焼き饅頭、その名も『かま風呂』(株式会社大原女家)という銘菓があります。機会がありましたら、その形と柚の香を配した味をご賞味あれ。
 世界広しといえども、風呂の名を使い、形を模した菓子は、ほかには聞いたことがありません。

現存しているものでは最古のかま風呂。八瀬「ふるさと」
釜風呂の一種、塩風呂の復元図

 釜風呂は江戸時代まで盛んに使われ、同じものが江戸では「塩風呂」として登場しますが、いずれも明治時代にほぼ姿を消してしまいます。

◆鎌倉、室町までは 寺の施湯が主流

 元来、風呂の始まりは宗教的な禊ぎや儀式にあったというのは、ほぼ世界に共通していることですが、我が国でも戦乱の治まるまでの時代は、入浴といえばイコールお寺でした。
 中でも東大寺の大湯屋(写真下)は、最大最古のもので、約100坪もあったようです。

 各自の家に入浴設備もなく、町湯も一般的でなかった時代、人々は寺院の湯屋に無料で入浴させてもらっていました。「施湯」と呼ばれる施しです。

◆光明皇后の施湯

 【上の図】は、当時の妖しげなサービスをする風俗店を描いた画のたぐいではありません。十二単を着た女性たちを「新手の風俗嬢ですか」などとバカげた冗談を言ったら、それこそバチが当たってしまいますぞ。
 医療や福祉に努めた慈悲深い高貴な方として有名な光明皇后(奈良時代)の「湯施行の図」と呼ばれるものです。病人を湯に入れ治療しています。
 
 右が焚き口で、上部の戸の奥が風呂になっているようです。この図は後世に描かれたもののようですから、必ずしも当時を正確に表しているとは言えませんが、施湯が当たり前のように行われていたことは、現存している図の多さでわかります。

 風呂は福祉や医療の代表選手として大きな役割を果たしてきたわけですが、この時代から現在に続いているわけです。

◆明智風呂

 【写真下】 明智光秀が信長を討った後、参拝した妙心寺にある風呂で、明智風呂とも言われてます。
 引戸が3段に設けられた蒸し風呂で、上下の引戸は蒸気調節用、真ん中が出入り口です。

 浴堂全体の大きさは30坪程度で、脱衣室、洗い場、風呂、休息の間などが配置されています。

 ところで、入浴料金を取る町湯(銭湯)は、既に平安時代には出現していたとの記述があります。我が国の「銭湯」の歴史の何と奥深いことか。

◆町湯を抜きにしては考えられない江戸の文化

 江戸時代は公衆浴場が大きな役割を果たしました。

 特に江戸などの大都会では、水や燃料の確保もさることながら、火災を起こすことを案じ、下級武士も含め一般の庶民は各自の家に風呂を持っていませんでした。基本的に町家は内湯を持つことを禁じられていたので、町人はよほどの豪商でもない限り湯屋に行かざるを得ませんでした。

 湯屋や銭湯が保健衛生の役割を担うわけですが、男女混浴であったり、湯女がいたりと問題も多かったようで、幕府も頭を痛めていました。

 幕府はたびたび混浴禁止令を出すわけですが、なかなか守られることはありませんでした。その理由は、混浴の入込湯(打込湯)を男女両風呂に分けるには、建物の大改造が必要で、大きな費用を要したからです。ようやくにして混浴が減るのは江戸時代も後期になってからでした。

◆風呂屋の権利=湯株が1,000両 !!

 ちなみに湯屋を開業するには「湯株」を持たなければなりませんが、これが数百両などという巨額だったとも言われ、投機の対象だったという説もあります。『守貞謾稿』にはこんな風に記述されています。

 今世、江戸の湯屋、おほむね一町一戸なるべし。天保府命前は定額あり。湯屋中間と云ひ戸数の定めありて、これを湯屋株と云ふ。この株の価ひ、金三、五百両より、貴きは千余金のものあり。株数、天保前五百七十戸。右の湯屋株、自株にて自ら業するあり、または株主と称して一、二株あるひは数株を買ひ得て、月収をもってこれを貸すあり。月収、俗に揚げ銭(あげせん)と云ふ。他の株を借り業とする者を仕手方(してかた)と云ふ。

 この記述を見ると、天保年間には5百数十軒の風呂屋があって、湯株の高いものでは千両にもなった。金持ちは湯株をいくつも持って、権利を他人に貸していたようです。江戸も中期以降になると、テナントや業務委託の風呂屋が少なくなかったと言えそうです。

◆珍妙だが理にかなった戸棚風呂

 初期の戸棚風呂は、床は格子になっていて、下から蒸気が上がってくる仕組みでした。後に膝下くらいの浴槽に湯が入ったものになりました。入ったら蒸気が逃げないように引き戸を閉めます。中は蒸気ですからロウソクなどの照明を灯せませんし、ガラス窓なんてない時代ですから、真っ暗です。

 【下図】で手前の女性は、湯女ではなくお客様です。こんな風に男女混浴だったんですね。狭くて真っ暗な戸棚みたいな中に一緒に入るんですから、ちょっとビビッてしまいそう。

 当時、武士道がすたれたとは言え、儒教の精神から考えれば、こんな光景が許されるはずがなく、前述したように徳川幕府は再三にわたって「混浴禁止令」を出すのですが、実際にはなかなか守られなかったようです。

 特に関西は、将軍家のお膝元である江戸とは違い、取り締まりも緩やかだったようで、守られなかったといいます。
 こんな状況ですから、風呂で「犯され」子供を身ごもるということもあったようで、記述では、商家の娘は風呂に行くときは供の女を連れ身を守らせた、というようなことも現実にあったそうです。

◆江戸風俗の人気を二分。吉原と競った湯女

 【下図】は、戸棚風呂から「ざくろ口」に変わった後の町湯内部です。這うように出入りしているのがざくろ口で、中の蒸気が外に逃げないように考えられました。 中に浅い浴槽があって蒸気を充満させます。

 しかし、だんだんと浴槽が深くなり、体を浸けるお湯に切り替わってゆきます。この図はまだ蒸気だったころと思われます。また、湯女が何人も描かれています。
 三浦浄心の『慶長見聞録』は江戸の町湯を次のように書いています。

「今は町毎に風呂あり。15文20銭づつにて入なり。湯女といひて、なまめける女共、2~30人ならび居て、あかをかき髪をすく、(中略)容色たぐいなく、心ざまゆうにやさしき女房とも、湯よ茶よといひて持来りたはぶれ、浮き世語りをなす。頭をめぐらし一たび笑めば、ももの媚びをなして男の心を迷わす。されば之を湯那と名付・・・」

 湯女は、歴史的には戦国時代、戦場から戻った武将の荒んだ気持ちを少しでも和らげるために、入浴時に女性に世話をさせたのが始まりでした。
いつしか一般化して流しから髪結い、衣服の面倒、それ以上の“お世話”までする、湯屋には欠くべからざる存在となりました。

 またまた余談になりますが、江戸時代のファッションリーダーは、1に遊女、2に湯女、3、4がなくて5に茶屋娘、別格で歌舞伎役者というのが、人気の中心だったようです。 湯女にも相当の美女が揃っていたと言われ、吉原の太夫の向こうを張った有名な湯女もいたようです。

◆湯屋の二階は情報収集の場

 江戸時代は、湯屋の2階は男性専用の脱衣と休憩のための空間でした。湯茶をサービスする美女がいて、碁や将棋も備えてありました。【下図】 噂話や情報が飛び交うところで、奉行所の役人もここで聞き込みや情報収集をしたといわれるほどです。

 面白いのは、奉行所の役人(定町廻り同心)だけは、朝の女湯に入る特権が認められていたことです。

 湯屋の2階が町の情報の集まる場所だった一方で、奉行所の手下=岡っ引き(下っ引き)は湯屋の主人が務めていたケースも少なくなかったとか。実は岡っ引きの親分は、奉行所から出る給料では子分たちの給料や行動費も払えず、カネと暇がある料理屋や湯屋等の主人じゃないと務まらない役目だったからです。

◆海には“行水船”が停泊

 江戸の町には、様々な商売が出現しましたが、風呂の分野も例外ではありません。町の広場には「辻風呂」、街頭には移動式のミニ銭湯「荷ひ風呂」、水上には「湯船」という舟の銭湯(下の図)もありました。行水船ともいうが、主に停泊している船の水夫たちを入浴させたようです。海運が主要な輸送手段であった江戸時代ならではです。

 塩湯とか薬湯といったものもあって、料金は高いが繁昌していたようです。

◆湯女が消えた明治の湯屋

 【下図】は明治初期と思われる東京の湯屋の2階を描いたものです。 江戸中期以前の町内クラブ的雰囲気とは打って変わった、およそ品のない、まるで遊郭のような様相を見せています。
 明治政府は、徳川幕府のように甘くはなかったようで、この後、明治政府の強硬な混浴禁止令および「改良風呂」奨励策によって、湯屋から湯女と2階が消え、現在の銭湯に近いものになってゆきます。

 当時、西欧ではキリスト教の影響で混浴はおろか、共同浴場そのものが排斥されていましたから、この日本の「混浴」状況は驚愕に値したことでしょう。 事実、かなり誇張されて日本の浴場が伝えられました。

2004年追補改訂