■欧州・中近東編
《古代ギリシャ》
スポーツクラブ(?)なども併設された
複合浴場施設が、なんと紀元前に存在した。
古代ギリシャでは、紀元前4世紀頃の神殿遺跡から風呂が見つかっています。 しかも紀元前5世紀頃には既に共同浴場が出現しています。バラネイオン(下図)と呼ばれる風呂でした。
このバラネイオンには女性専用施設も少なくなかったといわれます。 腰掛け式のシャワー=ヒップバスをたくさん並べた部屋があるのが特徴です。(後述を参照)
とても紀元前とは思えないですね。
これとは別に、ギムナシウムと呼ばれる施設もありました。 バラネイオンが純然たる風呂施設なら、ギムナシウム(下図)は体育&教育施設に風呂がプラスされたものです。
ギムナシウムは、いわば競技場とスポーツクラブが一緒になったようなもの。 いや、体育大学といったほうがより正確かも知れません。下図にあるように、全長200メートルのトラックも付いているなど、現代でも立派に通用しそうな施設です。
古代ギリシャの文化風土は、スポーツ万能で頑健な肉体を持つ男が最も尊ばれ、しかも明晰な頭脳が求められたので、こうした施設がつくられたのでしょう。だからギムナシウムには必ず講義室や図書館がありました。
ここでの風呂はあくまでも、汗を流したり垢を取ったりするための、実用本位につくられたものです。
紀元前3世紀以降になると、バラネイオンやギムナシウムに熱気浴が加わるようになり、さらに充実してゆきます。
この当時、世界的には風呂はまだ、儀式や禊ぎ用でしかなかったと思われますから、古代ギリシャの風呂施設には驚愕するばかりです。
日本はどうだったかと言えば、縦穴住居の縄文時代に終わりを告げ、ようやく弥生時代に入ろうとした頃ですから、とんでもない違いですね。
《古代ローマ》
3世紀には、大浴場を中心に飲食店・大ホール等も
併設された“総合レジャーランド”が出現。
古代ギリシャの影響を受けて発達した古代ローマの浴場には、2種類あります。
ギリシャのバラネイオンやギムナシウムを継承した浴場「バルネア」と、その中でも特にスケールの大きな、公立の共同浴場「テルマエ」です。
ギリシャにおけるギムナシウムは「体育大学」で男性専用でした。
ローマの時代になると、体の鍛錬は兵士のみが必要なものと考えられるようになり、一般市民が利用するうえでは、競技場の必要性が薄れて、風呂中心の施設バルネアに変っていったのです。
バルネアは競技場部分が小さくなるにつれて、女性用の浴場がつくられるようになり、その占める比率もどんどん大きくなってゆきました。
また、構造的な面では、紀元前1世紀以降になると、床下暖房方式を使うようになります。
これは簡単に言うと、浴室の床下全体をダクトのような空間にして、そこに熱気と煙を回すやり方です。お隣り朝鮮半島のオンドルと同じですね。
健康ランドの原型「テルマエ」
テルマエは紀元後に入ってつくられるようになった巨大建造物で、3世紀につくられたカラカラ大浴場などは、広さが3万坪以上もあったと言われます。浴場というよりは総合レジャーセンターでした。
施設内容は、風呂のほかボクシング、球技、レスリングなどのスポーツ、劇場、図書館、飲食店、大ホールがあり、売春も行われていたようです。
しかも入浴料は大抵のところが無料か、それに近い料金でした。帝国の巨大な富と奴隷が生み出した、都市「市民」のための総合レクリエーション施設です。
現在、ヨーロッパで見られるテルメや日本の大型健康ランドの原型は、ここにあったと言ってもよいかも知れません。
姿を消した共同浴場
こうした古代ローマの大規模風呂施設も、ローマ帝国の滅亡とともに次第に消え去ります。ひとつには、もの凄い量の水消費、石炭などの燃料消費を必要としたためだと言われています。
また、運営維持するためには使役(奴隷)が存在してはじめて成り立つものだけに、ローマ帝国のような巨大な富と権力の背景がなければ、とても存立し得なかったのです。
もう一つの理由は、その支配地域を拡大してきたキリスト教による「弾圧」です。キリスト教の影響が強まるにつれ、風呂は衰退していきました。
禁欲思想、とりわけ性に対する禁欲が求められたキリスト教のもとでは、男女が集い、裸になる風呂は「不道徳」以外のなにものでもありませんでした。
ヨーロッパではこれ以降、近代までの長い間、キリスト教会からの圧力による閉鎖命令などを受け、「共同浴場」は社会から姿を消すことになります。
《中東・アフリカ地域》
トルコの“ハマム”は社交場としても
賑わい現在に至る。
もともと地中海沿岸からアラビア半島にかけては、暑さの厳しい地帯なので、熱い風呂とは無縁でした。
しかし、古代ギリシャやローマの風呂文化にふれるなかで、次第に独自の風呂を生み出してゆきます。 代表的なものが今に続いている「ハマム」と呼ばれる浴場です。 ギリシャのギムナシウム、ローマのテルマエの流れをくむものです。
ハマムには競技場はなく、高温の浴室は小さくなり、冷気室や更衣室が大きくなって、水の確保が難しいためにプールも小さな円形のものになります。そして、マッサージやアカスリがメニューに登場してきます。
いつしかサロンのような役割を果たすようになり、独自の浴場文化を定着させました。
後に、トルコでこの風呂を知るようになったヨーロッパの人たちが、「トルコ風呂」と呼ぶようになり、19世紀になってヨーロッパ世界に入ってゆきます。我々が今日、ヨーロッパで目にするクアオルトにある浴場施設は、実はこれが原型になって生まれたものでもあります。
女性は当初、入浴を禁止されていましたが、病気治療などの必要性から次第に入浴が認められるようになります。そして、女性たちにとって 風呂はこの上ない楽しみとなってゆきます。
弁当を持って朝から風呂に出かけ、入浴して食べて噂話に花を咲かせ、1日ゴロゴロして過ごします。
また当時、オバサンたちは風呂に来る若い娘の顔と裸を見て、息子の嫁選びをしていたとも言われます。 現代のオバサン顔負けの合理主義と言ったらよいでしょうか。
20世紀、我が国の健康ランドの光景となんと似通っていることか。科学技術は進歩しましたが、人間はさほど変わっていないんですね。
2004年追補改訂